準備期間中に…
オレ様がしている
mixiの
”松永の祭を楽しめ”
というコミュニティーがある
それを通じて何人かのマイミク認証アリガト
中でも
祭マニアが一人いる
栄町の”minzo”くん
こいつはちょっとスゲー
栄町に偵察に行った時
団長が
「イベント初めてしたのいつ頃だっけ?」
と聞かれると
「あれは’93年です」
即答かよ…
彼の日記の中に
”開帳襦袢”
祭当日の衣装は、開帳襦袢(かいちょうじゅばん)
開帳襦袢について補足:
開帳襦袢とはサラシ等の記事で作られた白い羽織り物。白装束(死に装束)
そもそもいわれは、まだ神社と寺が一緒(神仏一体)だった頃からのものらしく、お寺などのご開帳(何十年かに一度、仏さんとかを公開するやつ)の時に羽織られた着物(襦袢)という。
松永では、本荘神社隣の丞天寺にて本荘重政(だったかな?ちょっと不明確)の本尊をご開帳するときに着られた事に由来され、神仏を扱う時(御輿を担ぐ時)に着るようになった。
どんだけぇ~
さらに…
コミュニティーの中で
”潮崎神社について”
潮崎神社
松永町下之町の旧県道に面した玉垣に囲まれている。
裏は羽原川。
元は柳津の丘にあったが、松永新涯が築かれた約300年前、塩田開拓の祖・本庄重政が麓に移して『塩浜の産社』とした―と、社伝は記す。以来、塩田の神様として代々、浜だんなが宮と祭りを取り仕切ってきた。明治維新後、神仏分離で松永の村社となり、今も全松永町が氏子である。
旧暦の8月27、28日に行われる例祭は『浜もうし』と呼んで、盛大を極めた。前夜祭の27日夜、みこしがここから船で、機織沖の小代稲荷まで渡御する『お旅』には、大の字、鳥居、ともえ、卍等、装飾を凝らした供船が多数従い、何百発という花火が打ち上げられた。『見物ノ貴賊塩浜に充満セリ。海面ニハ数百ノ供舟、近国ノ見物船集マリ、舟ゴトニ焼火(かがり火)ヲ捧げ(…)近国ニ並ナキ神祭ナリ』というほど、豪華な海上絵巻を繰り広げた。
宮司の柳田(当時77歳)さんは『備後では尾道の住吉さんと並ぶ有名な花火だった。続いていれば、良い観光行事になっているのに…』と懐かしむ。だが、塩の良い年にしか出なかったみこし船は、戦後、二度と出る機会がないまま、塩田は廃止になった。神社沖の塩浜は埋め立てられ、新県道には橋が架かった。
祭そのものは今でも続く。しかし、小代稲荷も沖から、埋め立て地に引っ越して、みこしのお旅は陸上道中に変わった。ここ十年以上、みこしの出番がない。子供たちが練り歩く町内ごとのだんじりには、赤ヘルやなめネコが登場する時代である。柳田さんは『船が出たころの華やかさはもう望めないが、せめてみこしだけは…』と古老たちの気持を代弁する。
1982年 中国印刷(株)出版
『まつなが』より引用
という訳で
?@.昔は潮崎さんから船で稲荷さん迄おみこしは旅をしていた(潮崎神社の羽原川沿いに石段があるのはその名残です)
?A.塩の良い年は、花火が上がっていた(それも尾道の住吉さんくらい盛大に)
?B.みこしは毎年出ていなかった(うちらの小さい時も何年かに1回でした。みこしが2体になってからほとんど毎年出ている)
という事です。
2008年は350年祭です盛大になる事を願っています
若い人は、参考に…
祭crazeさん、家にあった文献載せました
多分、松永町誌にはもっと詳細が書いてあったと思います。
~~~~~~~
いかほどぉ~
祭マニアというより
松永マニア
オレ様より3つも下
しっかりした青年です
まあ祭でキレル回数もシッカリした回数で…
約束通り
パクリ入れときます
手木長オツカレ様
来年もいい祭にしよ
mixiの
”松永の祭を楽しめ”
というコミュニティーがある
それを通じて何人かのマイミク認証アリガト
中でも
祭マニアが一人いる
栄町の”minzo”くん
こいつはちょっとスゲー
栄町に偵察に行った時
団長が
「イベント初めてしたのいつ頃だっけ?」
と聞かれると
「あれは’93年です」
即答かよ…
彼の日記の中に
”開帳襦袢”
祭当日の衣装は、開帳襦袢(かいちょうじゅばん)
開帳襦袢について補足:
開帳襦袢とはサラシ等の記事で作られた白い羽織り物。白装束(死に装束)
そもそもいわれは、まだ神社と寺が一緒(神仏一体)だった頃からのものらしく、お寺などのご開帳(何十年かに一度、仏さんとかを公開するやつ)の時に羽織られた着物(襦袢)という。
松永では、本荘神社隣の丞天寺にて本荘重政(だったかな?ちょっと不明確)の本尊をご開帳するときに着られた事に由来され、神仏を扱う時(御輿を担ぐ時)に着るようになった。
どんだけぇ~
さらに…
コミュニティーの中で
”潮崎神社について”
潮崎神社
松永町下之町の旧県道に面した玉垣に囲まれている。
裏は羽原川。
元は柳津の丘にあったが、松永新涯が築かれた約300年前、塩田開拓の祖・本庄重政が麓に移して『塩浜の産社』とした―と、社伝は記す。以来、塩田の神様として代々、浜だんなが宮と祭りを取り仕切ってきた。明治維新後、神仏分離で松永の村社となり、今も全松永町が氏子である。
旧暦の8月27、28日に行われる例祭は『浜もうし』と呼んで、盛大を極めた。前夜祭の27日夜、みこしがここから船で、機織沖の小代稲荷まで渡御する『お旅』には、大の字、鳥居、ともえ、卍等、装飾を凝らした供船が多数従い、何百発という花火が打ち上げられた。『見物ノ貴賊塩浜に充満セリ。海面ニハ数百ノ供舟、近国ノ見物船集マリ、舟ゴトニ焼火(かがり火)ヲ捧げ(…)近国ニ並ナキ神祭ナリ』というほど、豪華な海上絵巻を繰り広げた。
宮司の柳田(当時77歳)さんは『備後では尾道の住吉さんと並ぶ有名な花火だった。続いていれば、良い観光行事になっているのに…』と懐かしむ。だが、塩の良い年にしか出なかったみこし船は、戦後、二度と出る機会がないまま、塩田は廃止になった。神社沖の塩浜は埋め立てられ、新県道には橋が架かった。
祭そのものは今でも続く。しかし、小代稲荷も沖から、埋め立て地に引っ越して、みこしのお旅は陸上道中に変わった。ここ十年以上、みこしの出番がない。子供たちが練り歩く町内ごとのだんじりには、赤ヘルやなめネコが登場する時代である。柳田さんは『船が出たころの華やかさはもう望めないが、せめてみこしだけは…』と古老たちの気持を代弁する。
1982年 中国印刷(株)出版
『まつなが』より引用
という訳で
?@.昔は潮崎さんから船で稲荷さん迄おみこしは旅をしていた(潮崎神社の羽原川沿いに石段があるのはその名残です)
?A.塩の良い年は、花火が上がっていた(それも尾道の住吉さんくらい盛大に)
?B.みこしは毎年出ていなかった(うちらの小さい時も何年かに1回でした。みこしが2体になってからほとんど毎年出ている)
という事です。
2008年は350年祭です盛大になる事を願っています
若い人は、参考に…
祭crazeさん、家にあった文献載せました
多分、松永町誌にはもっと詳細が書いてあったと思います。
~~~~~~~
いかほどぉ~
祭マニアというより
松永マニア
オレ様より3つも下
しっかりした青年です
まあ祭でキレル回数もシッカリした回数で…
約束通り
パクリ入れときます
手木長オツカレ様
来年もいい祭にしよ
by matsuricraze | 2007-10-22 12:53 | 激愛松永(祭+祭人)